執筆


  青森県十和田市にある十和田市現代美術館が開館するにあたり作品を展示することになり、それまで縁もゆかりもなかった北東北へ行くようになった。十和田で出会った人たちと十和田湖畔の森の中でイタヤカエデから樹液を採取するようになる。イタヤカエデの樹液はほんのり甘く、そのまま沸かしてコーヒーを入れて飲んだり、煮詰めて楓蜜(メープルシロップ)にすれば利用方法はさまざまだ。

  イタヤカエデの生える森はブナとミズナラが主要植生であり、その森の林冠を形成している。イタヤカエデはブナとミズナラの隙間を縫うように枝を伸ばし生えている。樹液を採取するのは主に2月下旬からひと月ほど、この時期はとても寒く雪深い、何も目的がなければ人が好んで滞在するようなところではなく、むしろ畏れの感情から入ることさえないだろう。しかし、採取したばかりの樹液の味を知り、この自然環境だからこその恵みを知れば、その森をとても愛おしく思えるようになり、どこにイタヤカエデが生えているのか、木肌の雰囲気で見分けがつくようになる。自然に対して我々に備わっている能力はすばらしい。

  大昔、狩猟採集社会に発達した農業が伝わり、採集や食用植物の栽培から稲作へと社会的変化が進む。縄文人と農耕技術を持った大陸から来た人々とは生活する土地が異なっていたので、稲作が数百年に渡り定着していく。農業による安定した食料調達によって人口は爆発的に増加し、余剰がうまれ、支配者層のちからが強くなっていった。都市ができ多くの人々が集まって生活するようになると、複雑な人間関係が生じて疫病が流行るなどの良くないことが起こる。疫病の原因が科学的に知る由も無い時代、災厄に対して逃れたいという願望の解決として宗教政策が興る。それにより信仰心を深めていくことへとなる。山間に寺社が増え、修験道によって心身を高めるなどの信仰も現れてくる。都市に暮らす支配者層が山間の寺社まで時間をかけて行くことはできない。区画整理され守られている都市において、遠方の信仰対象の寺社の風景を敷地に再現し思いを馳せることで信仰心を満たす役割になっていったのではないか。古くからある須弥山石組や蓬莱石組などの中国思想に倣った山を見立てた石組みがあることからも想像できる。山林の風景を再現することは植物のことを経験的に知ることが必要である。もしくは、杣夫など植物の知識を持った人によって再現されたかもしれない。その考え方は大陸との交易によって入って来たということもあるだろう。ただ単に邸内での火災などの対策に池が作られ、池の維持のために石組が進歩したのかもしれない。水際の土が崩れないように水辺に育つ樹種が植えられ根を張らせ維持したのではないか。などなど、いろいろな要因が考えられるが、景観づくりや景観維持をしていくことで、状況に合わせて対応できる知識や技術が経験とともに深まり、さらにそこに宗教的な意味合いや地域性によって様々な様式の庭が構築され日本庭園として定着していったのではないか。

  江戸時代になると、鎖国によって海外との交易は縮小し、国内の物流や文化の交流が北前船によって日本全国へと広がった。北前船は外国へ行けぬように船の大きさや帆の数などが制限されバランスの悪い船であり、積荷にはバラストの代わりに下層に石を積み込んでいた。石もまた交易品として各地の石が流通し庭石に利用された。

明治神宮造営では、ドイツ林学を学んだ本多静六が中心となり、寺社仏閣の荘厳の森づくりを行う。この当時、荘厳の森というのは戸隠神社に見られるような杉の大木が林立するような、常緑針葉樹の森であった。しかし、明治神宮を造営する地域の気候では常緑広葉樹へと遷移してしまう自然環境下にあり、杉を中心とした森づくりはできなかった。そこで、100年後を見据えて常緑広葉樹(今ではクスノキが多く見られる)による荘厳な森に、人々の概念を変えるように全国から献木を募って造営した。

  このようなことひとつひとつによって、庭の意味することや存在理由が複雑になっていき、より広く人々の生活に入っていったのではないか。

  20代から9年働いた植木屋のことを思う。親方はその道40年以上、植物の生理生態など科学的なことは何も知らずに、先人から受け継がれてきた知識と自分の経験でそれを知っていた。感性も豊かであった。ある個人庭の剪定仕事。庭木を剪定しきれいに掃除をして道具も片付け終わった後、親方と縁側から庭を見渡したときに「あそこのハランの枯れた葉っぱ取って来てくれ」と言われ、ハランの枯葉3枚を取って縁側に戻り、再び庭を見渡すと濁りのない緑鮮やかな庭に変わっていた。

  古い家にある樫垣のことを話してくれた。樫垣は防火林として隣家からの延焼を食い止める役割として庭に隣家との境に植えられている。照葉樹であるカシノキは一年を通して水分を保有しているのでそのような役割になる。何も知らずに常緑針葉樹を境に植えてしまえば、脂が多いので延焼の手助けをしてしまうようなことがある。管理していた庭では施主の意向により刈り込みバサミで済ませられる手入れのしやすい常緑針葉樹の垣根が多く見られたが、樫垣のある庭を見ると安心する気持ちになったものだ。樫垣は横に広がるように手入れをするので、変わった形の枝ができやすい。枯死すれば材が堅いので、二次利用としてそういった枝が農具の柄などに利用されるなど様々なことに役立った。現代の庭は、何かの役割を担っていた自然物の代替品が多く存在するので、個人の庭に求めるものは景観だけになってしまったように思う。

  自然と人との関係は常であり、庭は自然への感情や知恵、先人の思想や歴史の詰まった文化として人間生活の中に取り込まれている。時代によって形や意味が加減され、狩猟採集民である我々のこころを豊かにし続けているものなのではないかと思う。

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